市指定文化財 キタヒロシマカイギュウ(ステラーカイギュウ北広島標本)の化石(6点)

北広島市内の音江別川の流域では1950年代より大規模な砂利採掘事業が行われていました。この採掘現場からは、1971年よりあいついで動物の化石が発見されました。
その中の一つが、世界で初めて確認された、前期更新世(約100万年前)のキタヒロシマカイギュウの化石です。

北広島市が所有するカイギュウの化石は6点あり、そのうち5点は1975年から1980年頃にかけて産出したもので、 採集した市民の方から寄贈を受けた北広島市立緑陽中学校が大切に保管していたものです。また残りの1点は、北海道教育大学名誉教授木村方一氏が保管していたもので、 2010年3月25日に本市に寄贈されました。

本標本は現時点では世界最古のステラーカイギュウであり、世界にとってもカイギュウの資料として貴重な物の為、北広島市では平成22年9月1日、第3号の文化財として指定しました。
  市指定文化財 バイソンの化石(28点)

北広島市が所有する28点のバイソンの化石は、1973年、当時の産業短期大学の田川賢蔵氏によって音江別川流域で採集され、2003年、北海道教育大学札幌校 木村方一氏に寄贈されたものです。

これまでの正式な報告では、北海道全体でみても、バイソンの化石は、この北広島市産出の2件(最初の発見:頭骨と右角;個人所蔵)と八雲町の1個体、浦河町の1個体のみ。日本全体でも、香川・岡山以東でのみ報告されいるのみで、大変貴重な化石です。
この28点の化石は、数少ないバイソンの化石の一つとして、北海道へバイソンが渡来してきた時期や古地理を特定するための重要な資料となっています。

さらに、アメリカ大陸やユーラシア大陸で出土したウシ科の化石と比較することで、世界のウシ科の系統を明らかにでき、 ほかの大陸と日本列島の地理的なつながりの変遷を明らかにする足がかりになります。
北広島市では、上記のような理由から市にとって特に文化的価値が高いと判断され、平成21年9月1日、バイソンの化石を、初めて市指定文化財に指定しました。

現在、バイソンの化石は、市教育委員会で保管しています。
  市指定文化財 サンドリッジ成大規模斜交層理の転写標本

平成12年、道道栗山北広島線の改良工事に伴い、中ノ沢に大規模な斜交層理が現れました。当時、新聞等のマスコミにとりあげられ話題を呼び、市民からは保存要望の声があがりました。
それを受け、市の教育委員会は保存の道を探りましたが、現地での保存が困難だったため、転写標本として採集しました。 前期更新世(今からおよそ170〜100万年前ごろ)のころ、石狩平野は、苫小牧から北広島を通り札幌に抜ける、狭くて比較的浅い海峡だったと言われています。

この海峡は北広島付近が最も狭く、潮流も最も強かったため、北広島付近に特徴的な地層ができる環境が発達しました。 このため大規模斜交層理は北広島付近にのみ分布が限られるとともに、北海道道央部のむかしの環境を考えるための、たいへん貴重な資料となっています。
現在では、鳴門海峡や豊後水道などの海底に同じような地層が堆積していることが明らかになっています。 しかし堆積には特殊な環境が必要なため、地層として地表に出現するケースは決して多くはなく、日本国内では、北広島のほか、房総半島中部、仙台北方、松江付近などに限られます。

このため、この標本は、国内的に見ても貴重な地質資料となっています。
また、国内にあるほかの地層に比べて露出条件が良かったため、地層の様子を詳細に観察しむかしの環境を調べるのに適しています。
さらに地層の資料として保存・展示されている斜交層理は、ほとんど例がないため、地学教育などの教材として貴重な存在です。
北広島市は、上のような理由から市にとって特に文化的価値が高いと判断して、平成21年9月1日サンドリッジ成大規模斜交層理の転写標本を、市指定文化財第2号に指定しました。
現在、転写標本は中央公民館に保存・展示されています。
  国指定史跡 旧島松駅逓所

旧島松駅逓所は1984(昭和59年)に国指定の史跡に指定されています。 島松駅逓所は、明治以降最も早く設置された主要道沿いの駅逓所であり、 後世の変革も比較的少なく、北海道開拓史上、貴重な遺構だということが指定の理由です。

駅逓とは、交通不便の地に駅舎と人馬等を備えて宿泊、人馬継立(つぎたて)、物資の輸送等に便宜をはかるために設置されたもので、 北海道における駅逓の起源は寛政11年(1799)にさかのぼることができます。明治初年、蝦夷が北海道に改められた後も開拓使に直結された形で駅逓業務が継続されました。
駅逓は、道内約六百十数ヵ所近く設置されましたが、開拓が進むにつれて次第に廃止され、昭和22年(1947)に駅逓制度が廃止されました。
島松駅逓は、明治6年(1873)12月函館、札幌間の札幌本道(車馬道)の開通に伴って官設駅逓所として島松川の右岸、胆振国千歳郡島松村に設置されたのが始まりです。
初代取締人は、勇払場所総支配人であった山田文右衛門が務めましたが、実際の業務は植田礼助がその代理人として仕事に当たったとされます。

その後、山田は明治8年(1875)駅逓取扱を辞退して、山口安五郎がその後を請けて二代目の取扱人となりました。
しかし、これも永続きせず明治10年(1877)3月、鶴谷新次郎が駅逓取扱人となりました。
明治17年(1884)8月には、中山久蔵が四代目の駅逓取扱人となり、明治30年(1897)島松駅逓所が廃止されるまでこの駅逓の業務は中山家によって行われました。 島松駅逓所は、札幌と千歳のほぼ中間地点にあり、それぞれ半日行程の場所に位置するため、多くの通行人にとっては重要な中継地点でした。 この事は、篤農家としての中山久蔵の知名度も自然と高まっていく結果にもつながっていきました。

政府要人の通行、天皇、皇族の行幸、行啓をはじめ、クラーク、ライマンといったお雇い外国人、道内各地へ向かう移民の多くがこの島松の地を通りました。
  国指定特別天然記念物 野幌原始林

北広島・札幌・江別の3市にまたがる野幌丘陵の森林は、大都市の近郊ながら大規模に残っている平地林として世界的にも珍しいものです。
特別天然記念物・野幌原始林は、その内、北広島市内わずか39.68haにひっそりと残っています。
野幌丘陵の森林は、明治4年には官林に指定され、古くより保護の対象でした。

1890(明治23)年に御料林、明治28年に禁伐林に指定されましたが、当時、保護された森林でも手入れは積極的に行われ、間伐材は薪炭材などとして活用されました。
北広島でも開拓初年の明治17年の冬から、すでに野幌の森林へ入り、手入れや枯損林の払い下げなどでで利益を得ていたようです。
明治32年、野幌丘陵の森林に大きな危機が訪れます。 町村制の施行に併せ、国有林の周辺4町村への分割案がでたのです。
農業用水の水源の衰退を恐れた広島の和田郁次郎、野幌の北越殖民社の関矢孫座衛門ら有志は立ち上がります。北海道庁長官に直談判を試み、分割案の撤回に成功します。

これは、当時、広島と野幌の住人の森林利用頻度が一番高かったにも関わらず、分割案は、先進町村の札幌、白石の森林の割り当てが多かった点も問題だったといわれます。
払い下げを免れた野幌の森林では、明治42年に林業試験場が設置されます。実に3426haに及ぶ広大なものでした。以後、1954年、月寒への転出まで試験場は野幌の森林にありました。
しかし、昭和に入り、森林を保護する状況が悪化します。
戦争が終わり、多くの引揚者が戻ってきました。 財産も土地もない彼らの移住のために林業試験場地のうち2198haの指定が解除され、115戸の入植がありました。
この時点で保護林は1200haほどになっています。

そんな中、1952年(昭和27年)3月29日、特別天然記念物に指定されます。
しかし、苦難は続き、1954年(昭和29年)、洞爺丸台風によって、指定地を含む野幌の森林は大打撃を受けます。 指定に耐えられないほどダメージを受けた地域は、1959年(昭和34年)、1962年(昭和37年)と二度にわたり指定を解除され、特別天然記念物は、天然林を維持していた現在の北広島市内3林班に限られることなりました。